道を辿ること、根を下ろすこと
紺野優希
昔住んでいた場所の記憶をたどる。埃をかぶった家の記憶、それでも覆いつくされない家族の記憶、小さい頃の記憶。床の間に飾られている写真が、こちらを眺めている。襖より高い位置に飾られた写真。額装した写真は、手前に少し傾いており、私のほうに視線を投げかけているように思えた。時間は夕方6時ごろ。雨戸を閉めると、外の光がたちまち遮られる。一室が蛍光灯の光で照らされる。食器棚に差し込んだ西日は、外へもう出ていった。棚の中にあった写真立てのことを思い出す。使わなくなった食器に混ざるように、飾られていた写真のことを。何かしらの理由があって、大切に置かれた写真。ガラス戸に守られた、それでも開ければ再び手に触れられる写真。その写真に写っている人たちは、誰だったのだろうか。今となっては、全く思い出せない。記憶の層は一枚一枚、そう簡単には引きはがすことができないものなのか。むしろ、その一枚一枚に、私たちは「記憶」という呼び名を与えてしまっているのではないか。そう思いながら、記憶の中の家の中のガラス戸の中の写真立ての中の写真の中の場所と人、彼らが共有していたなにかを思い描いてみた。私のこと、私たちのこと、たしかにそこにあったものと、たしかにそこにあるものの間を縫うように辿ってゆく。
額縁の中は始めから埋まっていたわけではない。そもそも、どの写真をどの額やページに入れようかなんて、考えてみたことがなかった。それに、保管してしまうことで、どこか別のところに追いやってしまうような感覚があった。もちろん、焼増しすればよかった話かもしれない。だが、そうしたところで解決する話なのか。この写真は私とどういう関係なのだろうか?朴愛里の作品の出発点が、まさしくここにあると言える。サイズとともに、引き延ばされた時間がここに立ち現れる――過去から今へ、「その人たち」から「私(たち)」の関係へ。実物の写真をモチーフにしながら、朴愛里は銅版画の制作に取り掛かる。印象に残るのは、煤けた痕跡のような表現だ。服や建物に残った黒い痕跡が、陰影以上のものを残す。ただし、それは苦痛の表象にとどまるわけではない。むしろ、その風景や場面が今ではなく、過去に取り残されたものとして、鑑賞者との距離をとりつつも出会わせる。埃がかぶったような印象は、かつてそこにあった事実と、時間を経て今ここにある事実を交差させる。作家や作家の家族の持っていた写真を大きいサイズで表現したり、フォトアルバムの一ページのように重ね合わせた作品からは、彼女自身のルーツを辿る試みだけではなく、その試みの躓きも垣間見える。躓くことは、別の道に向かわせてくれる。いくつもの景色が重ねられた作品は、まるで各々の時間軸と場所が異なって生まれた、テーブルクロスのようでもある。つぎはぎのテーブルクロス、それが敷かれたテーブルをひとり囲みながら、そこにいない存在と対話を繰り返す。存在していたが、自身とつながっている何かを探そうとする。
写真はかつての時間と場所に根ざしているものの、同時にその場からひっこ抜かれている。本来あった場所から一度離れてしまったもの、それでも今目の前に置かれたもの、それを一言で言い表すなら、現実と言えるのではないか。本展の出発点も、それに由来するのではないか。(本展のタイトルが仄めかしているように、)根を下ろすことと、道を辿ること。手に取った写真を見ながら、朴愛里はなにを思ったのか。集合写真に写った人々は、その時だけ集合していた。それは、家族やコミュニティの印ではあるものの、一瞬だけ集まっただけの儚い親近感である。焼き増しされ、複製されて、どこかの棚やアルバムに収められた――はたまた散り散りになった写真のような、一体感である。こちらに顔を向けた人々に囲まれながら、後ろ姿の人を目線で追いかける。そして、その人の目線の先を追いかける。それと同時に、目線の周りの景色を受け入れる。後ろ姿でたたずむ人も、朴愛里の作品に何度も登場する。遠くと近くを同時に見ること、それは直近の作品に登場する樹木のモチーフにも通底する。かつてから今にかけて、変化を受け入れつつも、在り続けること。何重にも重ねられて、受け継がれてきた時間を、「歴史」と呼ぶには、小さすぎるかもしれない。それでもこの小さくて些細な、個人的なイメージにこそ、私たちは身をもって時間の流れを感じ取ることができるのではないか。